2016年11月11日金曜日

20161110 会話のこと

つまらない会話が嫌い。


つまらない会話というのはつまり、お互いにさして興味もないのに、沈黙を埋めるためだけに言葉を発して、さて、次はどうしようか、ということを脳みそをフル回転して考えないといけないような、そういう類のもの。


人と話をしているとき、特に初めて会った人と話すとき、私はだいたい、話している最中から自分に幻滅する。

基本的にあんまり人に興味がないから、話を振ろうにも相手があれこれ話したくなるような質問が出てこないし、相槌もどことなく嘘っぽくなってしまう。

前までは、その場限りのうわっつらだけの会話をするなんて時間の無駄だから、どうせ同じ時間話すなら人生の深い話をした方がいい、なんて考えていたこともあった。

でも、自分の理屈で確立した世界の中である程度満ちたりてしまうと、人に対して発する言葉がどうにもこうにもわかったような口をきいた感じの説教じみたものになってしまって、もしかするとたまにはそれが相手の心にささることがあったとしても、自分の中ではほとんどがしゃらくさい、世間話よりもずっと薄っぺらいもののように感じてしまう。

それに、たとえ話題を振られたり、相手が私の話を聞きたがっているふうだとしても、自分の話をしすぎるのはまったくもって粋じゃない。

話すにしても、何もかも正確にぜんぶ話す必要はないのだからかいつまんで話せばいいものを、一から十までバカ正直に正確を期そうとしてしまうのもまた、粋じゃない。

わかっているのに、おおかた話し過ぎては、あとからひどく後悔する。


だから時々、期せずして誰かとおもしろい会話ができたりすると、ものすごく嬉しい気持ちになる。


おもしろい会話、というのはつまり、相手の話の続きをもっと聞きたいなぁ、私のこの話もしたいなぁ、というのが次から次へと浮かんできて、たとえカフェイン過多で胃がもたれつつあっても、もう少しその間を続けたい気持ちが勝ってもう一杯余分に飲み物を頼んでしまうような、そういう類の会話。

話した内容の大半がぼんやりとしていても、その時間のことをあとから思い出したときにふんわりとやわらかな色彩が浮かぶ、そういう会話ができると、ふだんは脳のどこかで眠っているなまけもののインスピレーション細胞が活性化されて、会話の中身とはまったく関係のないアイディアが急にわいてきたりする。


私にとってのおもしろい会話ができる人というのはどことなくみんなタイプが似ていて、謙虚で、そしてあまり雄弁ではない。


フリではなく本当に謙虚でいられるという在り方に、私は心から憧れるし、尊敬する。

先だって、家の食卓で、あぁ、私ももう少し謙虚な人になれたらいいんだけどなぁ、とつぶやいたら、すかさず母に、両親どちらにも謙虚さがないんだから、それはもう遺伝的に無理だよ、と言われて、そんなサラブレットはまっぴらごめんだ、と思ったけれど、実のところこれから私が血統書付きの謙虚を身につけることはたぶん難しい。

けれどもひょっとすると、自分が傲慢で雄弁だからこそ、正反対の人との会話の中で同じ感覚を共有したり共感したりすることがなおさら嬉しく、楽しくなるのかもしれない。


自分のさらけ出し方を間違えずにどんな人ともおもしろい会話ができるようになったら、ずいぶんいっぱしの大人になれるのに。


道のりは、まだまだ長い。







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