2015年12月30日水曜日

20151230

まるで昨日となんら変わらないように過ぎていくような日々だと思いきや、私たちはこの数年、何百年、あるいは何千年に一度起こるくらいの大きな大きなパラダイムシフトの渦の中に、いつのまにか巻き込まれている。


このパラダイムシフトが終わったあとにやってくる世界は、たとえるなら、真っ暗闇。

だからこの数年というのはある意味、来たりくるその真っ暗闇な世界を迎えるにあたっての準備期間のようなもの、と云える。


真っ暗闇の世界、と一言に云っても、その在り方は人それぞれで異なる。

ある人にとっては、不安や恐怖や絶望に満ちた世界。
ある人にとっては、静かに眠ることのできる世界。
ある人にとっては、今まで見えていたものが消え、見えなかったものが現れる世界。
ある人にとっては、いっそう自分の感覚が研ぎ澄まされる世界。
そしてすべての人にとって、ひとつひとつの魂たちのほんとうの形が、これまでよりもずっとずっとよく見える世界であり、その形を見つけるために必要な自分なりの「光」の所在を、意識的に探す世界でもある。


もちろん、これまでだってずっと、世界の見え方はいつも自分のものの見方に委ねられてきたわけだから、いつどこで何をしていても変わることのない自分をすでに持っている人たちにとっては、特になんら変わらない、とも云える。

地球の波動や次元が上昇したので、人間もそれに合わせてシフトします、物体の影響力はさらに弱まり、概念の力が強くなるため、その概念のエネルギーに合わせて私たちの意識や細胞の在り方も変わっていきます、なんて云われたところでピンとくる人なんてたぶんほとんどいないだろうし、実際のところ、どんなに急激に地球が変わったって、今生きている私たちがこれから急にあと200年生きられるようになるわけでも、突然性別が変わったり若返ったりするわけでもなく、この肉体はこれまでと同じように少しずつ衰えて、やがて失われることも、やっぱり変わらない。

それでも、このパラダイムシフトの期間は、まずひとつひとつの魂が自分の「本来のかたち」を見つけるために設定されている。
その「かたち」を見つけたうえで、まだ必要があれば今の肉体を維持しながらもうちょっと人としての人生を続けることになるし、本来のかたちに戻るときが来れば、それが周りの人にとってどんなに唐突なタイミングだとしても、肉体を脱ぎ捨てることになる。

そして、その選択は運命でも神さまでもなく、自分の魂が選んだとおりになる。

どちらにしても、この一年をピークに2018年頃まで続くパラダイムシフトの期間中、私たちに求められているのは、真っ暗闇な世界の中での自分の在り方や発光の仕方を「決める」こと。


私たちの多くにとって、多かれ少なかれしあわせを感じられるのは、自分の存在する世界に自分の思う「愛」が在るときだ、と私は考える。

大切な人がそばにいる。居心地の良い景色の中にいる。「何か」を熱烈にいとおしむ。
「何か」の温かいぬくもりの中で安心している。

人間にとってのしあわせには必ず、自分以外の「何か」や「誰か」という対象が存在する。


だけど、真っ暗闇の世界の中では、今までよりもずいぶん工夫しなければ、それらを見つけることはもちろん、これまで簡単にできていた「共有」や「共感」や「共鳴」といった具合に他者と何かをわかちあうことが、とても難しくなる。

その代わりに、自分の感覚をフル活用して見つけてわかちあったものは、今までよりもずっとずっと深くて大きな「愛」となって、自分の世界に存在するようになる。


これからやってくる真っ暗闇の世界というのは、まったく見知らぬ世界ではなく、これまであたりまえのようにそこにあった光が消えた、もともとの世界、という方がニュアンスとしては正しいかもしれない。

信じる信じないは別として、その光の正体は、いわゆる神さまとか天使とか守護霊とか亡くなった人の魂とか呼ばれる類の、生きている人間の数よりもずっとずっとたくさんいる、目に見えないサポーターたちだった。

彼らはこのパラダイムシフトの期間中、作為的に自分の光を消している。

いなくなったわけじゃない。
今でも、あたりまえのようにそばにいるけど、彼らは自分たちの在り方を変えている。

真っ暗闇の世界の中で、恐怖や不安や疑いに飲みこまれることなく、自分以外の「誰か」や「何か」の存在を信じたい者たちが目をこらし、自分で作り出した(あるいは見つけた)光でそれらの本当の姿を照らし出すのを、ただじっと、待っている。


彼らはこれまで、無限に「与える」ことを選んできた。
それは今もこれからも変わらない。

ただし今、彼らは私たちに「与える」ものに、ちょっとしたスパイスを加えている。
痛み、というスパイスを。

なぜなら、私たちはみんな、しあわせや喜びの記憶はすぐに忘れてしまい、痛みの記憶ばかり持っておこうとしたがる。

だから、ちゃんと知っていたはずなのに忘れてしまっていた大切なことや、今まで気づくことのできなかった大切なことをもう一度しっかりと思い出してもう忘れないために、なかなか忘れることのできない痛みの記憶を加えることで、私たちの魂のいちばん深いところにまで届く傷をつけて、残そうとしている。


たとえるなら、震災後の都心の夜。


まるで昼みたいにいつでも煌々と明かりの灯っていた街から、明かりが消えた夜。

夜の暗さや心細さと月や星の明るさを思い出して、今まですっかり忘れていたとても大切なことに触れたような気分になったとき、私の心に浮かんだのは、きっと私とは違う気持ちで同じ空を見上げているであろう誰かの悲しみと、見えなくなっていたけれどずっとそこにあった美しいものを見つけた喜びと、それらをないがしろにしていたことへの反省と、また見つけられたことへの感謝だった。

そして、また街に明かりが戻ったとき、私の心に浮かんだのは、まだ明かりの戻らない場所で空を見上げているかもしれない誰かの悲しみと、ふたたび便利で快適に暮らせる喜びと、それらがあることが当たり前だと思っていたことへの反省と、そういう日常を作ってくれていた先人やあらゆる人たちへの感謝だった。

相反するふたつの環境の中でも、心に浮かぶ感情は同じ。

今のパラダイムシフトでは、これと似たようなことがたくさん起こる。



結論から云ってしまえば、昼であろうと夜であろうと空がそこに「在る」ように、世界が真っ暗闇になっても自分の世界がそこに「在る」ことに変わりはない。

つまり、その真っ暗闇とのつきあい方次第で、自分の世界の景色はすっかり変わるから、いかにしてつきあうか、は自分で決めてしまえばいい。


********

この数ヶ月、あるいは数年の間に、ささいなことをきっかけに自分の心のいちばん深いところに隠れていた真っ暗闇を直視するような出来事があった人は、少なくないと思う。

そして、そこからもう二度と抜け出せないような絶望感の中に今もまだいつづける人もいれば、ほんの数分、気づかないくらいの一瞬の絶望だけを経験しただけで終わった人もいるだろう。


真っ暗闇に向き合う時間や密度は人それぞれ違う。

その違いがどこにあるのかと云えばそれは、たとえ外側から照らされている光が消えても、自分で発電できる予備のバッテリーを、それまで生きてきた時間の中でどれだけ蓄えてきたか、によるのかもしれない。

そのバッテリーというのは、たとえば自分の未来に対する夢や目標であったり、愛したい、守りたい人やものであったり、自分の可能性を信じる気持ちであったり、そもそも何も考えなくても「生きる」ことが自然にできるスキルであったり。
それもまた、人によって異なる。

だから、少々の停電ではビクともしないようなバッテリーを持っている人は、知らずのうちにそれを使うことができてしまう。
けれど、寿命の短いバッテリーしか持っていなければ、必然的に新しいバッテリーを自分で作り出すか、もしくはまったく光のない真っ暗闇の中に目を慣らして何かを見つけるか、あるいは、真っ暗闇の中で目を閉じて、そのままずっと眠り続けるか、はたまたこれまでと同じように自分を照らし出してくれる光を探すか、いずれにしても自分で決めて何かしらの策を講じなければならない。


そこで起こるさまざまな体験や感じ方もどれひとつ同じものがないし、どれが正しくてどれが正しいということもない。

私が知っているのは、私のバッテリーが完全に切れたときに見た真っ暗闇だけだ。
でも、それを一例として出すならば、光ひとつない真っ暗闇の中で、私はようやく、自分の全貌をはっきりと見たような気がしている。


これまでも私の人生はずいぶん険しい山あり谷ありだったけれど、この一年はある意味その集大成のような、そんな一年だった。


自分の選択に後悔しないように、自分に恥じないように、生きていたつもりだった。
それでも真っ暗闇の中で、今の私を作りあげてきた自分なりのいろんな価値観になぞらえて「私」という人間を眺めてみたとき、彼女は私にとって、なんの価値も見出せない存在だった。


今年が始まったとき、私はほんとうのからっぽの中にいた。
一度絶望の中に落っこちたときはまだ悲しみがそこにあったけれど、それすらもない、ほんとうのからっぽだった。

たぶん外側から見た私は、落ち込んではいるもののそれほど深刻には見えなかったのかもしれないけど、私の中は、そうではなかった。


いちばんの願いをなくしたとき、誰かを愛する心も、愛されたいという望みも消えた。
あることをきっかけに、うすうす気づいていたけれどどうしても認められなかった「才能のなさ」を痛感して、最後の夢を失くした。
表現したい自分は完全に消滅し、作品を作り出すことも言葉を綴ることもできなくなった。
身体から免疫力や抵抗力は失われ、臓器はみんな、さぼりがちになった。
もともと好きではない容姿はますます劣化するばかりで、鏡を見るたびにまったく知らない人間がそこにいるようで気味が悪かった。
きわめつけに、記憶に障害が出始めて、私は未来を、あきらめた。

その瞬間、私のバッテリーは完全に切れて、目の前に真っ暗闇が現れた。

それまでと変わらず、周りに優しくて温かい家族や友だち、そして私の仕事に感謝したり感激したりしてくれる人の気配を感じることはできたけれど、私は目を閉じて、自分の世界の周りに透明な薄い膜を張ることを選んだ。

そしてその膜の中で、私にとってちっとも価値のないこの人間こそ、ずっと違和感を感じながらも紛れもない今の私の姿であることを、ゆっくりゆっくり、飲み込んだ。

あのとき、私の世界には、私以外に誰も何も、存在していなかった。

そこで私は初めて、いつも誰かと誰か、誰かと自分、自分と自分を比べることで作り上げてきた価値観を、もう持たなくてよくなったことに気づいた。

そうして再び目を開けたとき、私の目に映る膜の外の世界は、すっかり変わっていた。

私にとってなんの価値もない、興味も期待も持てない「キヨノ」という名前のこの人間に対して、周りの存在がくれる優しさや愛情や感謝や賞賛はみんな、びっくりするくらいキラキラ光って、私の世界を照らしてくれた。

そしてそのキラキラは、私の世界を覆っている透明な膜に反射するたび、私の世界から、感嘆や喜びや愛やしあわせが、ちょっとずつ生まれていった。

膜のおかげで、光以外のものは、私の世界に届かなくなった。
いつかこの膜がなくなるときがくるとしても、今のところ、私の世界はとても静かで穏やかで、いつもキラキラと美しく、少しだけ淋しい。

肉体を捨てようとしている魂と、それを必死に止めている肉体とのせめぎあいに、勝ったのはどうやら肉体の方だった。

だから私は、愛着のない今の「キヨノ」のかたちに、ほんとうの私がいちばん好きなかたちを作って、加えてあげることにした。


過去を司る左側は、消えてしまったもとのかたちの代わりに、ついた傷を輝きに変えるダイヤモンドにして、星の光と同じ印をつけた。

未来を司る身体の右側は、生まれたてのたましいと同じ金色のまんまるな球体を半分もらって、在りたいことばを刻んだ。

そして今を司るまんなかに、永遠の祈りをくっつけ、そうしてできた新しいかたちに「sakihai=幸ひ」という名前をつけた。

向き合った人にしか届かない、ささやかな光。
でも、たとえ私がそこにいてもいなくても、そのさきに無限の可能性を秘めた、強くて美しい光。

それは私にとって、今まで作り出したものの中でいちばんキラキラしていたから、私はとても、嬉しくなった。

この小さな光が、よその世界にも届くといいな、と思ったら、また新しい希望が生まれた。


人間の肉体は、他の誰も何も介在できない自分の世界と外側との世界とをつなぐためのツールになるために存在している。

だから、私たちはみんな肉体を持っている限り、その形の内側にあるものをできるだけ知りつくしてフル活用しながら、外側に存在する無数の世界に触れるチャンスを得ることができる。

それがどれだけ素晴らしくて嬉しいことなのか。
そのことを、私たちひとりひとりがもっともっと実感するために、これからの世界は真っ暗闇になる。


大きなパラダイムシフトは、まだまだ続くから、私が今たどりついた場所もただの折り返し地点に過ぎないのかもしれないけれど、いちばん大きなうねりの中にいた一年が終わろうとする今、私は自分なりに見つけた答えに心から賛同し、感謝し、満足している。


あとどれだけこの肉体で生きられるのかもわからないにせよ、私は真っ暗闇の中でかくれんぼをしている神さまたちを描いたり、自分の心を音にしたり、交わる魂のしあわせへの祈りをジュエリーにしたりしながら、やっと見つけた穏やかで静かな自分だけの世界とよその世界を交錯させることを、できるだけ楽しんでいきたい。

そして、よその世界が私と交わるとき、そこに残るものはいつも、大なり小なりの愛に溢れた「しあわせ」で在りたい。


そういうふうに、生きていきたい。


まとまらないな。
まぁ、いいか。

終わりよければ、すべて良し。




sakihai

ミエヌヤミ アキラケキモノユエ
見えない闇は まぶしいものだから

キエヌヤミ イトケナルユエ
消えない闇は 大切なものだから


サキミタマ ナレバ テハナスマイ
結ばれる魂なら 互いに手を離すまい

クシミタマ サレバ ワスレマイ
もう会えない魂なら きっと忘れない


ソノ ◎ ウツクシミタマヘ
その痛み 悲しみ 喜びのすべてを どうか慈しんでください

コノ ◎ ウツクシミタマフ
この痛み 悲しみ 喜びのすべてを 私も慈しむから


ミココロガユメ カナイサキハヒマツレ
あなたの心の願いが 叶い幸いますように

ウツシヨニナシ カナイサキハヒマツレ
あなたの世界で現実となり 叶い幸いますように


ミホギタマフ
私は祈ります

アメツチカミマシテ
天地あらゆる神たちに

タイラケク ヤスラケクアレリ
あなたのいる世界がいつも平和で 愛に満ちたものであるように












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